EPICA

Duo DANKとしての活動を始めて早4年。チューリッヒでDianaと出会い、いろんな曲を試して、コンクールにも挑戦して、コンサートもして…。本当に「挑戦する」ことに楽しさと面白さを共有できるパートナーに出会えてこんなにも嬉しいことはありません。 今回のプロジェクトは、ニコライ・メットナー作曲ヴァイオリンソナタ第三番「エピカ」に挑戦します。(曲については後日またじっくり調べてから書こうと思います。)この曲、なんと…45分以上かかります。クラリネット奏者としては、かなり未知の世界です。体力・集中力、持つんだろうか?リードは果たして無事なんだろうか…。 クラリネットが入っている曲で、もちろん45分くらいの曲もありますが、ソナタで、休みがほとんどないっていうのは見たことがありません…。それでも、この曲に挑戦したかった理由は… この曲に惚れてしまいました。 本当にかっこいいし、面白い。吹けば吹くほど難しいし、ピアノとの掛け合いが楽しくなってきます。 この曲、最初に提案されたときは、「いやー…無理でしょう…」ってはっきり言って思いました。でも、とりあえずやってみようと楽譜をいざ読み始めると、一気に虜になりました。譜読み自体に数カ月かかり、こんなに時間がかかった譜読みははっきり言って初めてでした。それでも、最後まで粘って、やっと演奏会を企画して、お披露目まであと1か月半です。 ただ、まだ演奏会への期待よりも不安のほうが強いというのが正直な気持ちです。 あと1ヵ月半、できるだけのことをして、この大きな挑戦を大いに楽しみたいと思います。 まずはバーゼル。どうぞよろしくお願いします。 杏里

Sommerkonzerte 2022

木管五重奏≪Toniro≫が今夏、5回演奏会をします。 5月22日のバーゼルから始まり、7月22日のポスキアーヴォまで盛りだくさん。プログラムも大半ははじめての曲。とはいえ、まだ活動し始めて2年目のアンサンブル。これを機にどんどん精力的に活動できますように。 そして、Toniroのホームページに日本語も追加されました。Toniro 日本語よろしくお願いいたします。 杏里

Tōniro Quintett

2020年結成の Tōniro Quintett 。2019年暮れから「一緒にアンサンブルをしよう!」と主にフリーランスで活動している演奏家に声をかけて始まりました。2020年年始、コロナウィルスの流行がヨーロッパに来る少し前に初合わせ。その直後、ヨーロッパ全域がロックダウンに陥り、メンバーはスイスだけでなく隣国のフランス・ドイツに住んでいたので国境を渡れないし、外出自粛。管楽器の演奏もどのように感染に影響するかもわからず、すぐに活動はできなくなりました。 それでも、ずっと連絡を取り合い、夏が近づいて感染状況が落ち着き、練習場所も幸運なことに大きな部屋を借りれ、練習を続けてきました。 今、また感染が拡大しつつあるヨーロッパでどうなるかはわかりませんが、やっと演奏の場を持てそうな Tōniro Quintett 。私にとってこのコロナウイルスが流行している中でほとんど唯一といっていいほどの希望がこのアンサンブルでした。これからたくさんいろいろな場所で経験を積み、活動を発展させていきたいと思っております。 今はレパートリーを増やすこと、色々なジャンルの曲に挑戦しています。そして、その中からコンサートプログラムを組んでいく。私たちにしか出せない色がどんなものなのか、まだ絶賛探索中です。 どうぞ、これからの私たちをお楽しみに!! Web:https://www.toniro.ch/

ホームコンサート vol.2

FacebookとTwitterを一時休憩することにしたので、しばらくこのブログでも少し活動報告を書いていくことにしました! スイスではCovid-19が猛威を振るっているので、なかなか演奏活動は難しいですが、先週末、我が家に友人家族を招待してちょっとホームコンサートを開催し、夫婦デュオ Duo Kui’plong! での新しいレパートリーを披露しました。 新しい曲はショパン作曲の「幻想即興曲」。マリンバにすごくぴったりな曲。曲についてはまたいろいろと調べてここで紹介したいと思います。 その他には、それぞれのソロ曲とデュオでおなじみになった「熊蜂の飛行」を演奏しました。 自宅でのホームコンサートをするのは2回目。このコロナの状況下じゃなかったら始めなかったと思う企画。だけれど、これは続けていけたらいいな、と!また違った緊張を味わったり、笑いながら曲間を楽しんで…。 今後もちょっとずつデュオのレパートリーを増やしつつ、楽しいホームコンサートをまた企画したいな!と思っております。

コープランド / クラリネットソナタ

10月2日、Duo DANKで演奏する曲の一つ、コープランド作曲のクラリネットソナタ。これはもともとヴァイオリンソナタで、コープランドの友人であるHarry H.Dunham中尉に献呈されています。Ruth Posseltと作曲家によって1944年1月17日にニューヨークで初演されました。クラリネットのための編曲はTimothy Paradiseの推薦によってコープランド自身が行いました。その際、クラリネットパートはそのTimothy ParadiseとMichael Websterの二人で編曲されたそうです。このクラリネットとピアノのためのソナタ版は1986年3月10日にクラリネットパートを作った一人であるMichael WebsterとピアニストBarry Synderで初演されました。編曲に際し、作品全体がクラリネットの低音域であるシャリュモー音域が使えるように長三度移調されていますが、それ以外の変更はほとんどありません。 コープランドは作品にこのようなコメントを残しています。 「作品全体を通して、ピアノは意図的に控えめに書き、そしてその直線性はソロパートのメロディックな性質を補完しています。3つの楽章から構成され、2楽章と3楽章は続けて演奏されます。第1楽章は優しい歌の部分とより速いテンポの部分との間で雰囲気が交互に変わっていきます。緩徐楽章である第2楽章は輪郭がむき出しで、詩的な性質を持ちます。和声的には非常に平坦でホワイトノートと言えるかもしれない。最終楽章は活発でリズムは複雑で、軽く溌溂としたモチーフとより深い音調の部分とが組み合わさっています。そして第一楽章、オープニングのテーマが戻ってきてこのソナタは終わります。」 10月2日の演奏会は再びアメリカンプログラムに挑戦です!このコープランドのソナタをはじめ、クラリネットのレパートリーでは定番のバーンシュタイン、その他この演奏会に合わせてピアニストのDiana Kislovskajaが編曲してくれた曲も演奏します。昨年のマスタープロジェクトに続きアメリカン。今回はそれに合わせて、たくさんジャズを聴いています。今週金曜日が楽しみです。

ライヒャ / 木管五重奏曲

最も古い5つの異なる木管楽器で演奏される五重奏曲は18世紀後半の作曲家、Franz Anton Röslerが作曲しました。その曲はフルート、オーボエ、クラリネット、イングリッシュ・ホルンとファゴットのために書かれています。クラリネットの歴史から言っても、その前にクラリネットが含まれる木管アンサンブルはほとんどないと思われます。19世紀前半には16の作曲家が約66の木管五重奏曲を書いたとされています。その中にアントン・ライヒャが書いた24の木管五重奏曲も含まれます。 今の木管五重奏のスタンダードには木管でないホルンが入っています。その歴史のはじまりはだいたい18世紀後半ころまでさかのぼります。ドイツではその頃、管楽器の室内楽といえばハーモニームジークが盛んでした。その編成のスタンダードはオーボエ、クラリネット、ホルンそしてファゴット奏者が2人ずつの八重奏です。フルートは入っておらず、このころにはもうホルンが木管楽器と一緒に室内楽をしていました。この伝統はおそらく軍の音楽隊の編成がそうだったことに基づいていると思われます。 アントン・ライヒャは1770年プラハに生まれます。チェリストであった叔父であるヨゼフ・ライヒャよりフルート、ヴァイオリンそしてピアノのレッスンを受けます。どうやらベートーヴェンと同時期にボン大学に在籍していたようで、ハイドンともコンタクトを取っていたそうです。その後パリへ移りコンセルヴァトワールの対位法の教師をしました。生徒の中にリストもいたそうです。 彼の24の木管五重奏曲は1810年から21年の間にそれぞれ6つずつ作品88、91、99、100として書かれました。ライヒャは作曲の際、ハイドンの弦楽四重奏の作曲方法を手本にこれらの曲を作曲したと思われます。これらの木管五重奏曲はパリの木管楽器奏者のエリートたちに初演されます。フルートはドゥヴィエンヌの生徒であったJ.Guillou、オーボエはG.Vogt、クラリネットはJ.J.Bouffil、ホルンはL.F.Dauprat、ファゴットはA.N.Henryで、彼らは「ライヒャ五重奏団」と呼ばれました。 この時代、木管楽器は楽器開発の最も盛んな時期でした。多くの木管楽器の改良につながっていく「ベーム式」も19世紀前半に発明されます。ライヒャ五重奏団のクラリネット奏者Bouffilが使っていたクラリネットには6つしかキーがついていなかったそうです。その楽器はクラリネットのエチュードでおなじみのルフェーヴルが発展させたものです。 それぞれの作品には詳しく突っ込みませんでしたが、木管五重奏曲のはじまりをライヒャを中心に書いてみました。室内楽が大好きなクラリネット奏者としては木管五重奏曲をしないわけにはいきません!弦楽四重奏とは違い木管楽器は音の発生の仕方が違います。オーボエとファゴットはダブルリードで似ていますが、それ以外は全く別の仕掛けです。その5つの楽器が一緒に聴こえるとき、本当に新しいサウンドが出来上がります。今後、どんどんと取り組んでいきたい編成の一つです。

Richard Mühlfeld 2

「ここにいるミュールフェルドさんのように美しくクラリネットを吹ける人はいないだろう。」 1891年3月、ブラームスはクララ・シューマンにこのように手紙を書いています。この時、ブラームスはミュールフェルドにクラリネットの技術や音を知るために、モーツァルトやウェーバーの曲を演奏してもらっていたそうです。その夏、ブラームスはバード・イシュルの滞在中に、クラリネット3重奏曲作品114、そしてクラリネット5重奏曲作品115を作曲します。その2つの曲は11月にプライベートでヨアヒム四重奏団を招きマイニンゲンで初演され、その後ヨゼフ・ヨアヒムの勧めで12月にベルリン弦楽四重奏の夕べで公に初演されます。ブラームスはこのことをミュールフェルドに「私たちの共同作業、そして一緒に演奏したことは私にとって一番幸せで美しい音楽家としての経験の一つでした。そしてこれは私の中で最も価値のある思い出として刻まれるでしょう。」と手紙につづっています。 ブラームスとミュールフェルドの関係はその後、二つのソナタの作曲も含め、ブラームスの死までずっと続きました。 ミュールフェルドのクラリネットの演奏はワーグナーやブラームス、その他、当時の作曲家にクラリネットの可能性を大きく広げる役割を果たしました。奏者と作曲家のつながりは本当にその楽器の可能性を広げるためにすごく大切で重要なこと。ベニーグッドマンは多くの作曲家に作曲を依頼し、そこから関係を深めていきました。ミュールフェルドは自分の演奏で作曲家を魅了しました。今、現在も多くのクラリネット奏者が作曲家と共に新しい曲を生み出していっています。クラリネットの奏法もどんどんと変わっていきます。そしてそこには「楽器開発」という課題も出てきます。奏者・作曲家、それから楽器の開発。この3つのトライアングルが、今後どのように発展していくのか。クラシック音楽家は考古学者でありながら、同時に発展者でもあると思っています。特にクラリネットは比較的新しい楽器で、他の弦楽器や管楽器とは違いレパートリーもロマン派以降に重点がある。しっかりと現代に起こっていくことを見逃さず、私自身もいろいろと挑戦していきたいと、また改めて心に誓います。

Richard Mühlfeld 1

「私は十分に創作した。今、若者たちが来るべきだ。」ブラームスは1890年、自身の意欲の喪失から作曲を辞める決意をします。しかしその翌年、1981年3月ミュールフェルドにマイニンゲンで出会います。その後すぐ、クラリネット3重奏曲作品114とクラリネット五重奏曲作品115を、そして3年後の1984年に2つのクラリネットソナタ作品120を彼のために作曲します。 リヒャルト・ミュールフェルドは1856年2月28日にザルツブルクの音楽監督であったレオンハルト・ミュールフェルドの息子として誕生します。レオンハルトはリヒャルトにヴァイオリン、ピアノそしてクラリネットを教えます。彼はザルツブルクの教会合唱団にも所属し、そこで音楽家としての経験を積みます。そして18歳の時、マイニンゲン宮廷楽団の第2ヴァイオリン奏者になります。その頃からすでに彼はしばしばクラリネット奏者としてもオーケストラで演奏していました。マイニンゲン宮廷楽団は1876年、ワーグナーに招待されバイロイトで演奏をします。ミュールフェルドもそれにクラリネット奏者として同行していました。ワーグナーは彼のエグモント序曲のソロを聴いて、「今日のようにいつも演奏しなさい、そうすれば全世界があなたにひらけるでしょう。」と言いました。その後、ワーグナーの推薦で1879年に彼は正式にマイニンゲン宮廷楽団の第1クラリネット奏者となります。1884年からはバイロイトフェスティバルオーケストラの首席クラリネット奏者としても演奏します。亡くなるまでに彼は31年のキャリアの中で138の場所、645の演奏会で演奏したそうです。オーケストラ奏者以外でも男声合唱団の指導、ピアノとクラリネットの先生としても活動していました。 上に書きましたがブラームスは1981年にミュールフェルドに出会います。ですが、それは一番最初の出会いではありません。1881年にも一度マイニンゲンで出会っています。当時、マイニンゲンの指揮者であったハンス・フォン・ビューローがブラームスを指揮者として呼び、彼の交響曲とピアノ協奏曲を演奏しています。 ブラームスとミュールフェルドの関係についてはまた次で詳しく紹介したいと思います。ミュールフェルドのためにはブラームスだけでなくBerger, Dubois, Frugatta, Jenner, Krehl, Marteu, Rabl, Stanford, Verhey, Prinzessin Marie Elisabeth von Sachsen Meiningenらも作曲しました。ワーグナーの言う通り、たくさんの人を魅了したミュールフェルドのクラリネット。すごい。

マーラー / 大地の歌 2

前回の続きです。 1楽章「大地の哀愁に寄せる酒の歌」はホルンによるダイナミックなファンファーレで始まります。その後ヴァイオリンが主旋律を引き継ぎテノールのソロへと導きます。4節からなるこの酒の歌は死の恐怖と悲しみを歌います。Dunkel ist das Leben, ist der Tod (生は暗く、死もまた暗い)というリフレインは、半音ずつ上げて繰り返されます。 2楽章「秋に寂しきもの」は晩秋の音のない静かな風景と孤独の回想が表現されます。マーラーはベトゲの詩の題を男性名詞から女性名詞へと変更しています。それはマーラーがこの歌に自分の孤独を見つけたからではないでしょうか。この楽章は交響曲の緩徐楽章にあたり、彼はアルトのソロと室内楽のように作曲しました。オーボエによる悲しい主旋律が非常に印象的です。 3楽章から5楽章は生の喜びについて歌われます。3楽章「青春について」では人々が東屋で飲みながら話し、詩を歌っているという架空の風景が表現されています。この楽章のステレオタイプな五音音階での作曲は中国の雰囲気を作り出しています。 フルートとヴァイオリンによって春のような4番目の舞台「岸辺」へ導かれます。マーラーは「美について」とベトゲの詩より題を変更しました。この楽章は3部からなりA-B-A’の形式を取ります。A部では田園的な木管楽器と弦楽器が使われ、B部では金管楽器と打楽器で駿馬に乗る若者が描かれています。 5楽章「春に酔える者」も3部構成になっており、最初と最後の部分で酔っている者を表し、その間に寝ている部分があります。一楽章と同じ溌溂としたファンファーレで幕を開けます。この2つの楽章は「酒の歌」で結ばれています。酔っている者が調性が不安定な歌を歌います。中間部、寝ている部分では対照的に静かでコンサートマスターに鳥の役割を任せます。 6楽章「告別」でマーラーは二つの詩、「友人を待って」と「友人の別れ」を融合しています。この楽章は曲の全体の半分を占め、他の楽章と比べて不釣り合いです。低音楽器とタムタムによって地の底からなっているような古風な響きで始まります。間奏部まで多くの楽器が独奏されます。まずはオーボエのソロからはじまりフルートへ受け継がれます。その下ではクラリネットとホルンがこの楽章中現れ続ける下降する音型を演奏します。アルトのソロはフルートの伴奏を伴って対位法的に現れ、表情なく話しかけるように歌われます。無がその場を支配します。徐々にその無は解かれ、音楽は流れていきますが、間奏として葬送行進曲のようなはじまりの暗い響きがまた再現されます。この下降する音型が使われる部分は2つの詩の橋渡しの役割も果たします。アルトのレチタティーヴォで次の章、再現部が始まります。詩の終わり部分、「Die liebe Erde allüberall / blüht auf im Lenz und grünt aufs neu! / allüberall und ewig blauen licht die Fernen, / ewig, ewig…」はマーラーがほとんど新しく書き加えました。最後のEwig(永遠に)という言葉はアルトによって、オーケストラが長六度が付加されたハ長調の和音で完全に消滅するまで、繰り返されます。この最後の和音はこの曲がまだ続くような、永遠になり続くような印象を残します。 この作品の核となっている「世界の永遠性の前における人の一時性」は1907年、大地の歌が完成する一年前にマーラー自身が感じました。それは、彼の娘、マリア・アンナの死と、自身の心臓病でした。のちにヴェーベルンがベルクにこの作品についてこのように語っています。“Es ist so wie das Vorbeiziehen des Lebens, besser des Gelebten in der Seele des Sterbenden. Das Kunstwerk verdichtet,Continue reading “マーラー / 大地の歌 2”

マーラー / 大地の歌 1

マーラーの大地の歌はマンハイム音大に在籍していたころ、学校のオーケストラでバスクラを演奏しました。そしてその時、プログラムの書き方という授業を取っていて、学校の公式プログラムに私のドイツ語で書いたプログラムノートが印刷されました。とはいってもやはり一人では全然かけなかったので、先生の添削が多く連名になっていましたが…。印刷されたのが嬉しかったことと、でも、すごく悔しかったのを今でも覚えています。今日はその前半を日本語に訳してみました。 「…私はとても勤勉だった。…私自身、全体がどうなるのかがわからない。楽しかった、そしてこれは今までで一番個人的なものだと思う。…」1908年、マーラーはブルーノ・ワルターにこのように手紙に書いている。マーラーは、第9番となるはずだったこの交響曲に番号を付けなかった。おそらくそこには2つの理由がある。1つ目はこの「大地の歌」が交響曲、そしてオーケストラ伴奏による連作歌曲の両方の形を融合していること。2つ目は迷信からくるものだ。19世紀の偉大な作曲家たち、ベートーヴェン、ドヴォルザークやブラームスは10番目の交響曲を書く前、もしくは完成させる前に亡くなっている。だからマーラーはこの交響曲に番号を付けず、その後、公式に第9番を書いたのではないだろうか。しかし、運命はやってきてしまう。彼も結局10番目の交響曲を完成させることができず亡くなってしまう。大地の歌は6楽章構成となっていて、楽章ごとにテノール、もしくはアルト(バリトン)のソロがある。歌詞はハンス・ベトゲの詩集「中国の笛」に基づいている。ベトゲの詩集は中国の詩を直訳したものではなく、フランス語に訳されたものを更に自由に編集したものである。なので、ベトゲとマーラーによる編集で間違って訳されているものもあり、元の詩を特定することが難しいものもある。 次回、後半を訳してみようと思います。